2016年03月09日

シルクロードの都市国家群 5 戎盧国、扜彌国、渠勒国について

シルクロードの都市国家群 5 戎盧国、扜彌国、渠勒国について

シルクロード南路の国々

1. 戎盧国
2. 扜彌国
3. 渠勒国


1. The State of Ronglu 戎盧
戎盧国(じゅうろ)     定住し農業をするサカ人の国

シルクロード南路の都市国家 戎蘆 扜彌 渠勒.jpg


The state of Ronglu 戎盧 was reigned from the capital Bipin 卑品 that had 1,600 inhabitants during the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE).
戎盧国の首都は、卑品で、前漢時代(紀元前206年~紀元8年)の人口は、1600人でした。

The exact location of Bipin is not known, but must have been somewhere in the mountainous area between modern Qiemo 且末 and Fengxian 豐縣, Xinjiang.
卑品がどこにあったかは、はっきりとは分かりませんが、 現在の且末(チャルチャン)と民豊県(精絶国の尼雅遺跡がある)の間の山地だったはずです。


漢書より 「戎盧國王治卑品城去長安八千三百里戸二百四十口千六百一十勝兵三百人」
戎蘆国の王は、卑品城を治め、長安から8300里で、240戸、人口1610人、兵力300人です。

「東北至都護治所二千八百五十八里東與小宛南與婼羌西與渠勒接辟南不當道」
東北に2858里行くと西域都護府があり、東には小宛国、南には婼羌国、西には渠勒国、南には道がありません。


历史故事大全网的博客より
http://blog.sina.com.cn/s/blog_832f187d0102vq61.html

戎卢 (戎蘆)
戎卢的分布地在今新疆民丰县正南,尼雅河上游地区,为定居农业民族,属塞种。后被于阗兼并
戎蘆国の位置は、現在の民豊県の真南で、尼雅河(ニヤ)の上流でした。定住し農業をするサカ人の国。後に于阗国(ホータン)に吸収される。





2. The State of Yumi 扜彌 (Turkic name Keriya)
扜彌国(扞弥国) トルコ名ケリヤ(Keriya)

シルクロード南路の都市国家 戎蘆 扜彌 渠勒.jpg


The state of Yumi 扜彌, also called Jumi 拘彌 or Ningmi 寧彌, was located in the region of the River Keriya 克里雅河 near modern Yutian 于田, Xinjiang.
扜彌国(Yumi)は、拘彌(Jumi)、または、寧彌(Ningmi)とも呼ばれ、新疆の于田(ケリヤ)県付近のケリヤ川(克里雅河、River Keriya)流域にありました。

タリム盆地の川3.jpg

Some historians identify the ruins of Kaladun 喀喇墩 with the city of Yumi.
喀喇墩(Kaladun)遺跡を扜彌の都市遺跡と考える歴史家もいます。

During the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE) the population of Yumi was 20,000 people.
前漢時代(紀元前206年~紀元8年)には、扜彌国の人口は、20,000人でした。

In 129 CE King Xing 興 was killed by the ruler of Yutian 于闐.
紀元129年に興王(King Xing)が、于闐王に殺害されました。

The Chinese governor (taishou 太守) of Dunhuang 敦煌 therefore in 132 ordered the king of Shule 疏勒 to attack Yutian 于闐.
それで、中国の敦煌太守は、132年に疏勒国王に、于闐国を討つように命じました。

Yet in 157 again, troops of Yutian 于闐 invaded Yumi and killed a lot of persons, along with the new king.
しかし、157年に再び、于闐国が扜彌国を侵略し、大勢の人々を殺し、新王も殺害しました。

The Han government thereupon decided to intervene in Yumi with an own army.
漢政府は、そこで、扜彌国に自国の軍を派遣しました。

A new king was installed as the new ruler, but Yumi had lost its significance from then on and soon disappeared.
そして、新王が任命されました。しかし、扜彌国は、その頃から重要性を失い、間もなく消滅しました。

During the Qing period 清 (1644-1911) Yumi was given the name Yutian 于田.
清朝時代(1644年~1911年)に、扜彌の名前は、于田になりました。

漢書より:
扜彌國王治扜彌城去長安九千二百八十里戸三千三百四十口二萬四十勝兵三千五百四十人
扜彌国王が治める扜彌城は、長安から9280里で、3340戸、人口20,040人、兵力3540人

輔國侯左右將左右都尉左右騎君各一人譯長二人
政府組織は、輔國侯(宰相)、左右の将軍、左右の都尉(司令官)、左右の騎君(騎兵隊長)が、各一人、通訳長が二人

東北至都護治所三千五百五十三里南與渠勒東北與龜茲
東北に3553里の所に西域都護府があり、南には、渠勒国、東北には、龜茲国

西北與姑墨接西通于闐三百九十里今名寧彌
西北には、姑墨国、西の于闐国までは、390里、またの名を寧彌国と言う。







3. The State of Qule 渠勒
渠勒国(チラ)

シルクロード南路の都市国家 戎蘆 扜彌 渠勒.jpg


The state of Qule 渠勒 was located on the banks of the upper course of Keriya River 克里雅河 in Yutian 于田, Xinjiang.
渠勒国は、新疆の于田(ケリヤ)県の克里雅河(ケリヤ川)上流沿いにありました。

タリム盆地の川3.jpg

During the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE) the population of Qule was 2,000 people.
前漢時代(紀元前206年~紀元8年)には、渠勒国の人口は、2000人でした。

The capital city was called Jiandu 鞬都.
首都は、鞬都でした。

Qule was subject to the Chinese Protectorate of the Western Territories (Xiyu duhufu 西域都護府).
渠勒国は、中国の西域都護府に従属していました。

During the Later Han period 後漢 (25-220 CE) it was conquered by Yutian 于闐.
後漢時代(紀元25年~220年)に、渠勒国は、于闐国に征服されました。

漢書より:

渠勒國王治鞬都城去長安九千九百五十里戸三百一十口二千一百七十勝兵三百人
渠勒国王が治める鞬都城は、長安から9950里で、310戸、人口2170人、兵力300人

東北至都護治所三千八百五十二里東與戎盧西與婼羌北與扜彌接
東北の西域都護府までは、3852里、東には、戎蘆国、西には婼羌国、北には扜彌国があります。


互动百科より
http://www.baike.com/wiki/%E6%B8%A0%E5%8B%92%E5%9B%BD

渠勒国,古西域国名,当时西域三十六国之一,位于今新疆于田附近。
渠勒国(チラ)は、古代西域の国名で、当時の西域三十六国の一つ。位置は、現在の新疆于田(ケリヤ)県付近。

国民尚武,生产结构以农为主,兼营畜牧。因自然和战乱等原因,曾经历三次搬迁。
国民は、武を重んじ、産業は、農業と牧畜です。環境変化や戦争が原因で、位置を三回変えました。


建国历史
渠勒国(チラ)の建国の歴史

公元前 60 年(汉神爵二年),西汉王朝在西域建立都护府,渠勒国正式纳入汉朝版图。
紀元前60年(神爵二年) 前漢王朝が、西域都護府を作り、渠勒国は、漢王朝の属国になりました。

公元25 年(建武元年) ,东汉政权建立,匈奴势力控制塔克拉玛南缘,渠勒国被匈奴统治。
紀元25年(建武元年)  後漢政府が成立。匈奴の勢力が、タクラマカン砂漠南縁に及び、渠勒国は、匈奴の統治下に入る。

公元94 年(和帝永元六年) ,东汉统一西域30余国,渠勒国重新归属汉中央政权统治。
紀元94年(和帝永元六年)  後漢が、西域三十数か国を統一し、渠勒国は、再び漢の中央政府の統治下に入りました。

公元132 年后,东汉王朝困羌于乱,无暇西顾。大于阗国(今和田) 日渐强盛,开始侵吞周边小国。
紀元132年以降、後漢王朝は、羌族による争乱で、西域を顧みる余裕がなく、于闐国(ホータン)が、強力になり、周辺の小国を併合しました。

公元180 年左右,渠勒国被于阗国吞并。
紀元180年頃、渠勒国は、于闐国(ホータン)に併合されました。

吞并后管
併合後の管轄

公元221 年(魏黄初二年) ,曹丕派张恭为戊已校尉进驻西域,于阗属戊已校尉管辖。
紀元180年(魏黄初二年)  (曹操の子で二代目の魏王の)曹丕が、張恭を戊己校尉(場所は、高昌 :トルファン)として西域に駐留させた。于闐は、戊己校尉の管轄下となる。

公元640 年(贞观十四年) ,唐王朝设置安西都扩府,于阗归属唐王朝统治。
紀元640年(貞観14年) 唐王朝(侯君集が高昌国を滅ぼして)が、西州都護府を置いた。于闐は、唐王朝の統治下になる。

公元660 年(高宗显庆五年) ,突厥军队击破于阗,于阗被突厥统治。
紀元660年(高宗顕慶:けんけい五年)  突厥軍が于闐を撃破し、于闐は、突厥の統治下になる。

公元671 年(高宗咸亨二年),于阗在唐王朝军队的配合下驱逐西域吐蕃军队,于阗重属唐朝统治。
紀元671年(高宗咸亨:かんこう二年) 于闐と唐王朝の軍隊は、吐蕃軍を西域から駆逐し、于闐は、再び唐王朝の統治になる。

公元1006 年(宋真宗景德三年),喀喇汗王朝大汗玉素甫·卡德尔征服于阗。
紀元1006年(宋真宗景德三年) カラハン朝のユスフ・カデル汗(大汗玉素甫·卡德尔:Yūsuf Qadr Khān)が、于闐を征服する。

于阗军队将领朱克提热西提·努克提热西提在策勒南部山区战死。从此,于阗改尊伊斯兰教。
于闐軍(訳注:仏教徒軍)の二人の将軍の朱克提热西提と努克提热西提は、策勒(新疆ホータン地区チラ県)南部の山中で死亡。その時から、于闐は、イスラム教に改宗した。

公元1134 年,西辽王朝建立后,于阗处于西辽约势力范围以内。
紀元1006年に、西遼王朝(訳注:西遼の耶律大石がカラハン朝を征服)が成立した後、于闐は、西遼の勢力範囲に入る。

公元1218 年,铁木真(成吉思汗)灭西辽占领和田,和田归属蒙左帝统治。
紀元1218年に、テムジン:铁木真(チンギスハン:成吉思汗)が、西遼を駆逐し和田(ホータン:于闐)を占領。和田(ホータン:于闐)は、モンゴル皇帝の統治に入る。
公元1514 年,和田归属叶尔羌汗国统治。
紀元1514年に、和田(ホータン:于闐)は、ヤルカンド汗国(叶尔羌汗国)の統治下になる。


チャガタイ・ハン国の歴史について
13世紀前半 チャガタイ・ハン国成立(チンギスハンの次男チャガタイの国)
14世紀(1340年代)に、チャガタイ・ハン国が東西に分裂。
東チャガタイ・ハン国=モグーリスタン・ハン国(Moghulistan Khanate)成立。
16世紀~17世紀  モグーリスタン・ハン国の君主の子孫の王朝が、ヤルカンド・ハン国(カシュガル・ハン国)  


公元1884 年(光绪十年),清政府设和田直隶州,并在原里雅城设于田县。
策勒是于田县管辖下的一个明(乡) ,策勒明位于克里雅城西230里,辖12个。

1884年(光绪十年)に、清政府は、和田を直隷州にする。策勒は、于田県の策勒明(村)になる。
策勒の位置は、于克里雅城の西230キロ。


渠勒国 – 环境
渠勒国(チラ)の環境

渠勒国 ( 在今策勒县南部山区 ) 是当时西域三十六国之一。
渠勒国(チラ)は、現在の策勒県(チラ)南部の山地にあり、当時の西域三十六か国の一つでした。

渠勒在西域是个较小的国家,为防止外敌入侵,国民崇尚武艺。
渠勒国(チラ)は、西域の小国だったので、外敵の侵入を防ぐために、国民には武術を奨励しました。

公元前27年,渠勒王接受了汉朝的印绶,按照汉制授予官职。
紀元前27年に、渠勒王は、漢の臣下となり、漢の官僚制度を導入。

当时的渠勒古国灌溉便利、水草丰美、生态优越,生产结构以农为主,兼营畜牧。
当時、古代の渠勒国は、灌漑が発達した緑豊かな良い環境で、農業を主として牧畜も行いました。

短短百年间,因战乱和自然等原因,土地大面积沙化,耕地、草场被流沙掩埋,渠勒古国被迫搬迁。
ほんの一世紀で、戦争と自然の要因で、土地が広範囲に砂漠化し、耕地と牧草地は、流砂に埋まりました。古代の渠勒国は、移動を余儀なくされました。

热瓦克是渠勒古国的第二处遗址,位于现在的策勒县城西北部。
ラワク寺院遺跡(熱瓦克寺院遺跡) は、古代の渠勒国(チラ)の第二番目の遺跡で、場所は、現在の策勒県(チラ)の西北部。

ラワク遺跡.jpg

热瓦克佛寺遗址(ラワク寺院遺跡)についてのサイト
http://www.xjht.gov.cn/Article/ShowArticle.aspx?ArticleID=165187

ラワク寺遺跡仏像.jpg

热瓦克佛寺遗址(ラワク寺院遺跡)
佛像-- 1994年出土  影塑菩萨--1994年出土  
(影塑とは、浮彫の事)


热瓦克,维吾尔语即“宫殿”之意,折射其当时的繁华。
ラワク(熱瓦克)とは、ウイグル語で「宮殿」の意味で、当時の繁栄を示しています。

距今约620年以前,一场大风卷着漫漫黄沙一直刮了40多个昼夜,将热瓦克的人畜、草场、农田掩埋。
およそ620年前に、大砂嵐が昼夜40日吹き続けて、熱のために人畜が被害を受け、牧草地や田畑が埋まりました。

策勒古城再次搬迁。现在的策勒县城就是第三次搬迁的位置。
旧策勒(チラ)の街は、再び移動して、現在の策勒の街は。三度目の場所なのです。

据考,当年玄奘所经位于尼壤城之西的媲摩城,有可能就是渠勒国王治所在地。
(大唐西域記で)玄奘が立ち寄った尼壤城(ニヤ)の西の媲摩城(ヘイマ)は、渠勒国(チラ)の王都だった可能性があります。


渠勒国 – 遗址考证
渠勒国(チラ)の遺跡調査

策勒で漢代の都市遺跡.jpg

2012年4月中旬,中国社会科学院考古研究所新疆考古队与新疆策勒县文物保护工作者在塔克拉玛干沙漠腹地进行文物考察时,意外发现一处具有汉式风格的“高等级”古城遗址。
2012年4月中旬に、中国社会科学院考古研究所のチームと新疆策勒県(チラ)文物保全局の職員が、タクラマカン砂漠の辺縁を調査中に、かなりの規模の古代都市遺跡を発見しました。

中国社会科学院考古研究所新疆考古队队长巫新华博士认为,这是在塔克拉玛干沙漠中迄今发现的最为完整的古城遗址,这个古城不排除就是汉代西域三十六国中“渠勒国”的可能。
中国社会科学院考古研究所新疆考古チームの長の巫新华博士は言います。今回、タクラマカン砂漠で、非常に保存状態の良い古代都市遺跡が見つかりましたが、漢代の西域三十六か国の「渠勒国(チラ)」の可能性があります。

考古发现,古城位于新疆和田地区策勒县城北的沙漠深处,大部分已被流沙掩埋。古城大致呈南北向坐落,形制布局为四重城墙结构。古城形制非常完整,而且规格很高,从各种迹象推断,很有可能是较早时期的一个军镇,或者是有一定地位的某个绿洲聚落的首领级人物的居所。
今回見つかった古代都市は、新疆和田地区策勒の街の北の砂漠の中で、大部分が砂に埋もれています。古代都市は、南北向きに造られ、四重の城壁に囲まれています。古代都市の設計は非常に整っていて、ハイレベルです。いろいろな要素から判断して、ここが、かなり大昔の防衛拠点、または、地方の高い身分の首領が住んでいたオアシス都市だと思われます。

塔克拉玛干沙漠深处发现“高等级”汉式风格古城遗址
タクラマカン砂漠で漢時代の古代都市遺跡を発見
http://tech.ifeng.com/discovery/detail_2012_04/25/14142496_0.shtml

http://news.xinhuanet.com/tech/2012-04/24/c_123030076.htm


posted by ウクライナ人妻の夫 at 15:35| Comment(0) | ウイグルの古代人 | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

シルクロードの都市国家群 4 精絶国について

シルクロード南路の都市国家 精絶.jpg

シルクロードの都市国家群 4 精絶国について

シルクロード南路の国々

The State of Jingjue 精絕

The state of Jingjue 精絕 was either located at the banks of River Andir 安遞爾河 in Fengxian 豐縣, Xinjiang, or might have been based in the ruins of Niya 尼雅 in the same region.
精絶国の位置は、新疆ウイグル自治区民豊県の安遞爾河(River Andir)のほとりか、尼雅遺跡の付近と考えられます。

The city was during the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE) populated by 3,300 persons.
前漢時代(紀元前206年~紀元8年)の精絶国の人口は、3300人でした。

Jingjue was destroyed by the state of Shanshan 鄯善 during the Later Han period 後漢 (25-220 CE) .
精絶国は、後漢時代(紀元後25年~220年)に鄯善(旧名は楼蘭)によって滅ぼされました。


漢書より 「精絕國王治精絕城去長安八千八百二十里」
精絶国王が治める精絶城は、長安から、8820里です。

「戸四百八十口三千三百六十勝兵五百人精絕都尉左右將譯長各一人」
戸数は480軒で、人口3360人、兵力500人、官職は、精絶都尉(司令官)、左右の将軍と通訳長が各一人。

「北至都護治所二千七百二十三里南至戎盧國四日行地阸陿西通扜彌四百六十里」
北に2723里で西域都護府に至り、南に険しい道を四日行くと戎盧国です。西に460里で扜彌国に行けます。


西遊旅行より
http://saiyu.co.jp/special/silkroad/midokoro/niya/index.html
尼雅遺跡0.jpg

尼雅(にや)遺跡 (精絶国の跡)

尼雅遺跡1.jpg

タクラマカン砂漠、崑崙山脈の間に位置する西域南道沿いに栄えたオアシス都市。
民豊(ニヤ)の町から約100kmの砂漠の中に位置し、東西7km、南北25km、175平方キロメートルの範囲に仏塔を中心として、寺院や住居、果樹園、貯水池、墓地跡が残ります。
「漢書・西域伝」に記載されている「精絶国」の一部とされていて、紀元前1世紀に栄え、尼雅河の流れが変わってしまったため紀元4世紀には滅びたとされています。

尼雅遺跡2.jpg

尼雅遺跡3.jpg

尼雅遺跡4.jpg

尼雅遺跡5.jpg

尼雅遺跡b1.jpg


互动百科
http://www.baike.com/wiki/%E7%B2%BE%E7%BB%9D%E5%8F%A4%E5%9B%BD

精绝古国 – 精绝古城
古代の精絶国 古代都市の精絶

死亡之海中的东方庞贝
死の海、東洋のポンペイ

大漠掩盖的诸多谜团
砂漠には多くの謎

1901年,被誉为伟大的考古学家、探险家,同时也是丝绸之路上的盗贼和魔鬼的匈牙利裔英国人斯坦因在英国政府的资助下,
1901年に偉大な考古学者で探検家、また、シルクロードで悪魔的盗賊行為を働いたハンガリー出身の英国人のスタインは、英国政府の資金援助で

对新疆地区开始了全面的考察活动,在发现了深埋地下的于阗古国国都,并掠走大量文物后,他来到了小县城尼雅。
新疆で大々的に研究活動を始め、地下深くに埋まっていた古代于闐(ホータン)国の首都を発見し、大量の文化遺産を略奪し、その後で、小さな尼雅(ニヤ)の町に来ました。

一位磨坊主人藏有带字的木板,具有深厚文字功底的他一眼就辨认出木板上的字是失传已久的印度孔雀王朝时代的古文字 --佉卢文。
ある粉屋の主人が文字が書かれた木簡を持っていました。スタインは、古代文字の知識があったので、一目で、これがインドマウリヤ朝時代の失われたカローシュティー文字と分かりました。

佉卢文最早起源于古代犍陀罗,是公元前3世纪印度孔雀王朝的阿育王时期的文字,全称"佉卢虱底文",
カローシュティー文字(佉卢文)の起源は、古代ガンダーラ(犍陀罗)で、紀元前三世紀のマウリヤ朝(孔雀王朝)のアショーカ王(阿育王)の時代の文字です。省略なしで書くとカローシュティー文字(佉卢虱底文)と書きます。

最早在印度西北部和今巴基斯坦一带使用,公元l-2世纪时在中亚地区广泛传播。
古くは、インド西北部と現在のパキスタン(巴基斯坦)一帯で使用され、紀元後一世紀から二世紀には、中央アジア(中亚)に広く伝播しました。

公元4世纪中叶随着贵霜王朝的灭亡,佉卢文也随之消失了。
紀元後4世紀半ばにクシャーナ朝が滅び、カローシュティー文字も廃れました。

18世纪末佉卢文早已经成了一种无人可识的死文字,直至1837年才被英国学者普林谢普探明了佉卢文的奥秘。
18世紀までは、カロシュティー文字は、誰も知らない死文字でしたが、1837年に英国の学者プリンセプ(普林谢普:James Prinsep)が、カロシュティー文字(佉卢文)を、解読しました。

这种文字在新疆出现使得他非常吃惊,于是向磨房主重金求购了这些木板。
この文字が新疆で見つかった事に驚き、粉屋の主人に、大金を払って木簡を購入。

在斯坦因的请求和丰厚报酬的引诱下,磨坊主欣然同意带领斯坦因到沙漠中自己发现木板的地方。
スタイン(斯坦因)が、道案内に多額の報酬を提示すると、粉屋の主人は、スタインを、砂漠の中の木簡を見つけた地方に案内することに同意しました。

斯坦因一行沿着尼雅河向北进发,走了几天以后,顺利到达了发现木板的废墟里面,眼前的一切使得即使有着丰富考古经验的斯坦因也目瞪口呆:
スタイン一行は、尼雅河沿いに北に歩き、木簡のある廃墟に到着。その場所を見て、考古学的経験の豊富なスタインも、驚愕しました。

当年的文书还完好地封存在屋内,储藏室里厚积的谷子还有橙黄的颜色,房厅屋宇的门还是关着的……时间看似停止,人们仿佛刚刚离开这里
屋内には、当時の文物がそのまま残り、納屋には、黄橙色のキビがあり、家のドアは閉じられて、時間が止まったようです。住民が、外出しているだけのような感じがしました。

走在这座沉睡了1600年的古城里,斯坦因有种"消失了时间观念的奇怪感觉",他相信自己正走过"某个古时的村庄,走在整整1600年以前的乡间小路上"。
1600年前の古代都市を歩くのは、夢を見ているようで、スタインは「時間の感覚が無くなったようで奇妙だった」と書いています。1600年前の古代の街の道を歩いているのです。

当风吹起地面上的枯叶,斯坦因甚至认为它们就是从一簇簇散立的枯树上落下,留有最后的居民踩过的足迹。
風が吹き地面の枯葉が舞い上がると、スタインは、まばらに立つ枯れ木から枯れ葉が落ちたのかと思いました。住民の最後の足跡のようです。

斯坦因发现尼雅遗址位于尼雅河末端已被黄沙埋没的一片古绿洲上。
スタインは、尼雅(ニヤ)遺跡が、尼雅河(ニヤ河)の末端の古代のオアシスが黄砂に埋もれた場所だと考えました。

古遗址散处掩坦在古尼雅河谷的沙丘链之间,以佛塔为中心,呈带状南北延伸25公里,东西布展5~7公里。
古代の遺跡は、古代の尼雅河(ニヤ河)だった砂丘の間の谷間にあり、仏塔を中心に、南北25Km、東西5Kmから7Kmの帯状です。

在这片狭长区域内,散布着规模不等、残存程度不一的众多房屋遗址、场院、墓地、佛塔、佛寺、田地、果园、畜圈、渠系、池塘、陶窑和冶炼遗址等。
この狭い範囲に、いろんな規模の残存程度が様々の家屋、庭、墓地、仏塔、仏寺、田地、果樹園、畜舎、運河、池、陶窒、鍛冶場の遺跡が散在しています。

他用尼雅河的名字为这座古城命名为"Niyasite"。
彼は、ニヤ河(尼雅河)から古代都市を「Niyasite」と名づけました。

16天后,他把从古城中搜集到的764件佉卢文木牍、58件汉简及其他如汉代铜镜、铜钱、乐器、弓箭、玻璃器、水晶饰物、木雕、丝毛织物、地毯、漆器残片等珍贵的文物共装12大箱,运往伦敦。
16日後、彼は古代都市から764片のカロシュティー文字の木簡、58片の漢文、銅鏡、銅銭、楽器、弓、ガラス器、水晶の飾り物、木彫り、絹織物、カーペット、漆器片など貴重で珍しい文物を集め、12個の大箱に詰めて、ロンドンに送りました。

尼雅的劫难就此开始,斯坦因离开尼雅时说"此次再见,绝非永诀"!
尼雅(ニヤ)の大惨事の始まりです。尼雅(ニヤ)を離れる時に、スタインは言いました。「必ず、また帰ってくる。」

早在新疆的时候,斯坦因就意识到自己将轰动世界、影响世界。这一天终于来到了。斯坦因回到伦敦后,他带回的文物首先震惊了英国,接着轰动了欧洲。
スタインの最初の新疆調査は、世界を驚かせました。スタインがロンドンに持ち帰った文物は、まず英国を、続いてヨーロッパに衝撃を与えました。

尼雅遗址不仅是古代丝绸之路的一处重要遗址,它同时向人们展示被斯坦因称为"死亡之海"的塔克拉玛干大沙漠所存在的一个悠久、古老、光辉灿烂的沙漠古代文明,尤其尼雅河三角洲的考古文化将会揭示大沙漠环境变迁和历史文化的诸多谜团。
古代シルクロードの重要遺跡は、尼雅(ニヤ)遺跡だけではありません。スタインの言う「死の海」であるタクラマカン砂漠は、かつて古代文明が花開きました。尼雅河(ニヤ河)の三角州は、砂漠の環境変化や歴史文化的変化などの多くの謎を秘めています。
posted by ウクライナ人妻の夫 at 17:44| Comment(0) | ウイグルの古代人 | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

新疆で小宛国の古墓群が出土

新疆で小宛国の古墓群が出土  2010年11月10日

小宛国は、チベット北麓で農耕・牧畜したスキタイ人
青銅・鉄器時代 2000年前


新疆挖掘水毁古墓群 有望启动小宛国历史研究(图)
新疆で洪水被害の古墳群を発掘、小宛国の歴史に新たな知見
2010年11月10日 13:41 来源:中国新闻网
http://www.chinanews.com/cul/2010/11-10/2646524.shtml



视频新疆:“小宛国”古墓群出土 (youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=tUk8qBh3JaY

小宛国古墓群.jpg

新疆で、小宛国の古墓群が出土 
洪水で河岸が削られ12座の墓を発掘

新疆博物館考古部の王博研究員 
陶器、銅器、鉄器が見つかり動物の骨が多いです。

新疆且末县吾大其古墓群出土的铜刀.jpg

新疆且末县吾大其古墓群出土的铜刀。
新疆チャルチャン県の吾大其古墓群出土の銅刀

新疆且末县吾大其古墓群出土的铜镜.jpg

新疆且末县吾大其古墓群出土的铜镜。
新疆チャルチャン県の吾大其古墓群出土の銅鏡


中新网且末11月10日电(孙亭文 龚李义)经过连续三天的挖掘清理,新疆且末县被洪水冲出的吾大其古墓群抢救性保护工作告一段落。10日,负责考古挖掘工作的新疆博物馆考古部研究员王博告 诉记者,吾大其墓地的发掘隐射了古西域三十六国之小宛国的文化,可借此研究小宛国的历史。
11月10日に、新疆の且末(チャルチャン)県の洪水被害にあった吾大其古墳群の発掘調査が、一段落しました。3日間発掘しました。新疆博物館考古部の王博研究員によると、吾大其古墓群は、漢書にある西域三十六か国の小宛国のようです。

シルクロード南路の都市国家 婼羌 且末 小宛.jpg

  据悉,由于当地今年夏季突发洪水后,一个距今2000多年的古墓群也随之展现在人们眼前,而对于这一古墓群的抢救性挖掘和清理工作已于6日启动,该地点位于海拔2800米高度。
今年の夏の突然の洪水で、2000年前の古墳群が見つかりました。遺跡の保護調査のための発掘が、6日に始まりました。現場は、海抜2800mです。

  经过连续的古墓抢救性挖掘和清理工作,考古人员收获颇丰,连续出土了饮水用的黑陶、铜器皮带扣、铁骑、随葬的牲畜和成年女性和婴儿的尸骨等,而这个古墓群有12个古墓组成。
発掘で考古学者は、次々と発見をしました。水を飲むための黒陶、銅のベルトバックル、騎兵に副葬の家畜、成年の女性と赤ん坊の遺骨など。12の墓がありました。

  且末是“玉石之路”的发祥地和“丝绸之路”南道重镇,古西域三十六国的且末国和小宛国就在其境内。且末国位于平原,曾以农业生产为主,有种植葡萄的记载,
且末国(チャルチャン)は、「ヒスイの道」の出発点であり「絹の道(シルクロード)」の南路の重要地点でした。古代の西域三十六か国の且末国の勢力圏内には、小宛国がありました。且末国は、平地で農業が盛んで、ブドウ栽培をしました。

该县1985年考古发掘的扎滚鲁克古墓群为研究且末国的历史提供了大量珍贵资料。
且末(チャルチャン)県では、1985年に、扎滚鲁克古墓群(ザグルック)の発掘が行われ、且末国研究の貴重な資料が大量に見つかりました。

扎滚鲁克古墓群(ザグルック)について
https://www.kando-tairiku.com/dest/05id006406.html


小宛国位于山区,以养畜为主,但《汉书》中有关记载仅为其城址 在且末国以南约300里,大约喀喇米兰河流域中心地带,其余没有更深入的研究,资料很缺乏。
小宛国は、山中にあり、牧畜が主産業でした。漢書には、首都の位置ははっきりとは書いてなくて、且末国の約300里南の喀喇米兰河(黒ミラン河)流域ですが、それ以上の情報はありません。

  “吾大其墓地在形质上与扎滚鲁克古墓群有较大区别,扎滚鲁克古墓群全部是土坑墓穴,吾大其墓地是石棺墓,这体现了且末国和小宛国的区别”。
小宛国の吾大其墓地と且末国の扎滚鲁克古墓群は、様式が完全に異なります。扎滚鲁克古墓群では、全て土坑墓穴ですが、吾大其墓地は、石棺墓です。

“这次挖掘的吾大其墓地位于昆仑山北麓沙丘地带,地处平原与山区之间,从地理位置讲,吾大其处于且末国和小宛国的交界。”
今回発掘した吾大其墓地は、崑崙山脈北麓の山の間の平地で砂丘地帯です。且末国と小宛国の国境付近です。

  王博说,现在发掘的吾大其墓葬群有两座出土了马头、山羊和绵羊,有的羊头还比较多,
王博氏によると、現在発掘中の吾大其墓葬群では、二つの墓で、馬、ヤギ、ヒツジの骨が出土し、ヒツジの頭骨が多いです。

说明这的人当时是以养畜为主,与小宛国的生产方式相似,但奇 怪的是从墓葬中没有发现牛骨。
家畜の飼育が主体なのは、小宛国の生産方式に似ていますが、不思議なことに、この墓からは、牛骨が見つかりません。

据现在的吾大其居民讲,他们没有喂养牛的习惯,而是养羊、马和驴,原来,这一处的草场比较稀疏,牛吃不饱,自古就没有养牛的 条件。
現在の吾大其の住民も、牛を飼う習慣はなく、ヒツジ、馬、ロバを飼っています。古来、広い牧草地がなかったので、牛を飼わなかったのでしょう。

  而对于今后如何对古墓群进行保护,王博说,洪水冲出的断裂面弯弯曲曲400余米,墓葬底平面低于现河漫滩90公分,说明历史上这里曾发生多次洪水。现在看到的就是古墓被冲刷过的迹象,进行保护,从河水流向看主要是把洪水挡住,因为墓地面积不清,如全面进行发掘,难度很大,可通过拦坝或人工改道来 解决。
古墓群を保護する方法について、王博氏は言います。洪水による破断面は、曲がりくねりながら長さ約400mです。墓は、氾濫原よりも90㎝低いです。古来、洪水がたびたびあった場所であり、墓地の面積も現在不明で、全体を発掘するのは困難。遺跡を保存するには、人工的に川の流れを変えるか、ダムをつくるしかありません。

  小宛国古西域国名,《汉书·小宛国传》记载,王治圩零城。
小宛国は、西域の古代国家の名で、「漢書小宛国伝」によると、王が治める首都は扜零城。

去长安七千二百一十里。户百五十,口千五十,胜兵二百人。辅国侯,左右都尉各一人。西 北至都护治所二千五百五十八里,东与婼羌接,辟南不当道。
長安から7210里で、150戸、人口1050人、兵力200人、輔国候(宰相)と左右の都尉(司令官)が一人ずついます。東には婼羌国があり、南には道がありません。

小宛国在今且末正南,喀拉米兰河北岸一带,由于其南为可可西里山,所以比较偏僻。
小宛国は、且末国の南で、喀拉米兰河(黒ミラン川)の北岸一帯です。南には、可可西里山(崑崙山脈の6305mの山)があり、かなりのへき地。

居民从事农业生产,为古塞种人,属印欧语系伊朗语族之民族。
住民は、農耕を行い、古代のサカ人で、インド・イラン語族の民族。

  且末县地处塔里木盆地东南缘,南依昆仑雪山,北临塔克拉玛干沙漠。
且末県(チャルチャン県)は、タリム盆地の東南端にあり、南にはコンロン山脈があり、北は、タクラマカン砂漠です。

县境主要是沙漠和绝大部分海拔3000米以上的高山,地广人稀,平均每平方公里还不到半个人。国道315线和塔中沙漠公路横贯境内,距离乌鲁木齐市约1500公里。
県境は、大部分が、砂漠か高度3000m以上の高山で、人口密度は一平方キロメートル当たり0.5人です。国道315号線と塔中沙漠公路が通っています。ウルムチから1500Km。







posted by ウクライナ人妻の夫 at 10:15| Comment(0) | ウイグルの古代人 | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。