2016年03月09日

シルクロードの都市国家群 5 戎盧国、扜彌国、渠勒国について

シルクロードの都市国家群 5 戎盧国、扜彌国、渠勒国について

シルクロード南路の国々

1. 戎盧国
2. 扜彌国
3. 渠勒国


1. The State of Ronglu 戎盧
戎盧国(じゅうろ)     定住し農業をするサカ人の国

シルクロード南路の都市国家 戎蘆 扜彌 渠勒.jpg


The state of Ronglu 戎盧 was reigned from the capital Bipin 卑品 that had 1,600 inhabitants during the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE).
戎盧国の首都は、卑品で、前漢時代(紀元前206年~紀元8年)の人口は、1600人でした。

The exact location of Bipin is not known, but must have been somewhere in the mountainous area between modern Qiemo 且末 and Fengxian 豐縣, Xinjiang.
卑品がどこにあったかは、はっきりとは分かりませんが、 現在の且末(チャルチャン)と民豊県(精絶国の尼雅遺跡がある)の間の山地だったはずです。


漢書より 「戎盧國王治卑品城去長安八千三百里戸二百四十口千六百一十勝兵三百人」
戎蘆国の王は、卑品城を治め、長安から8300里で、240戸、人口1610人、兵力300人です。

「東北至都護治所二千八百五十八里東與小宛南與婼羌西與渠勒接辟南不當道」
東北に2858里行くと西域都護府があり、東には小宛国、南には婼羌国、西には渠勒国、南には道がありません。


历史故事大全网的博客より
http://blog.sina.com.cn/s/blog_832f187d0102vq61.html

戎卢 (戎蘆)
戎卢的分布地在今新疆民丰县正南,尼雅河上游地区,为定居农业民族,属塞种。后被于阗兼并
戎蘆国の位置は、現在の民豊県の真南で、尼雅河(ニヤ)の上流でした。定住し農業をするサカ人の国。後に于阗国(ホータン)に吸収される。





2. The State of Yumi 扜彌 (Turkic name Keriya)
扜彌国(扞弥国) トルコ名ケリヤ(Keriya)

シルクロード南路の都市国家 戎蘆 扜彌 渠勒.jpg


The state of Yumi 扜彌, also called Jumi 拘彌 or Ningmi 寧彌, was located in the region of the River Keriya 克里雅河 near modern Yutian 于田, Xinjiang.
扜彌国(Yumi)は、拘彌(Jumi)、または、寧彌(Ningmi)とも呼ばれ、新疆の于田(ケリヤ)県付近のケリヤ川(克里雅河、River Keriya)流域にありました。

タリム盆地の川3.jpg

Some historians identify the ruins of Kaladun 喀喇墩 with the city of Yumi.
喀喇墩(Kaladun)遺跡を扜彌の都市遺跡と考える歴史家もいます。

During the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE) the population of Yumi was 20,000 people.
前漢時代(紀元前206年~紀元8年)には、扜彌国の人口は、20,000人でした。

In 129 CE King Xing 興 was killed by the ruler of Yutian 于闐.
紀元129年に興王(King Xing)が、于闐王に殺害されました。

The Chinese governor (taishou 太守) of Dunhuang 敦煌 therefore in 132 ordered the king of Shule 疏勒 to attack Yutian 于闐.
それで、中国の敦煌太守は、132年に疏勒国王に、于闐国を討つように命じました。

Yet in 157 again, troops of Yutian 于闐 invaded Yumi and killed a lot of persons, along with the new king.
しかし、157年に再び、于闐国が扜彌国を侵略し、大勢の人々を殺し、新王も殺害しました。

The Han government thereupon decided to intervene in Yumi with an own army.
漢政府は、そこで、扜彌国に自国の軍を派遣しました。

A new king was installed as the new ruler, but Yumi had lost its significance from then on and soon disappeared.
そして、新王が任命されました。しかし、扜彌国は、その頃から重要性を失い、間もなく消滅しました。

During the Qing period 清 (1644-1911) Yumi was given the name Yutian 于田.
清朝時代(1644年~1911年)に、扜彌の名前は、于田になりました。

漢書より:
扜彌國王治扜彌城去長安九千二百八十里戸三千三百四十口二萬四十勝兵三千五百四十人
扜彌国王が治める扜彌城は、長安から9280里で、3340戸、人口20,040人、兵力3540人

輔國侯左右將左右都尉左右騎君各一人譯長二人
政府組織は、輔國侯(宰相)、左右の将軍、左右の都尉(司令官)、左右の騎君(騎兵隊長)が、各一人、通訳長が二人

東北至都護治所三千五百五十三里南與渠勒東北與龜茲
東北に3553里の所に西域都護府があり、南には、渠勒国、東北には、龜茲国

西北與姑墨接西通于闐三百九十里今名寧彌
西北には、姑墨国、西の于闐国までは、390里、またの名を寧彌国と言う。







3. The State of Qule 渠勒
渠勒国(チラ)

シルクロード南路の都市国家 戎蘆 扜彌 渠勒.jpg


The state of Qule 渠勒 was located on the banks of the upper course of Keriya River 克里雅河 in Yutian 于田, Xinjiang.
渠勒国は、新疆の于田(ケリヤ)県の克里雅河(ケリヤ川)上流沿いにありました。

タリム盆地の川3.jpg

During the Former Han period 前漢 (206 BCE-8 CE) the population of Qule was 2,000 people.
前漢時代(紀元前206年~紀元8年)には、渠勒国の人口は、2000人でした。

The capital city was called Jiandu 鞬都.
首都は、鞬都でした。

Qule was subject to the Chinese Protectorate of the Western Territories (Xiyu duhufu 西域都護府).
渠勒国は、中国の西域都護府に従属していました。

During the Later Han period 後漢 (25-220 CE) it was conquered by Yutian 于闐.
後漢時代(紀元25年~220年)に、渠勒国は、于闐国に征服されました。

漢書より:

渠勒國王治鞬都城去長安九千九百五十里戸三百一十口二千一百七十勝兵三百人
渠勒国王が治める鞬都城は、長安から9950里で、310戸、人口2170人、兵力300人

東北至都護治所三千八百五十二里東與戎盧西與婼羌北與扜彌接
東北の西域都護府までは、3852里、東には、戎蘆国、西には婼羌国、北には扜彌国があります。


互动百科より
http://www.baike.com/wiki/%E6%B8%A0%E5%8B%92%E5%9B%BD

渠勒国,古西域国名,当时西域三十六国之一,位于今新疆于田附近。
渠勒国(チラ)は、古代西域の国名で、当時の西域三十六国の一つ。位置は、現在の新疆于田(ケリヤ)県付近。

国民尚武,生产结构以农为主,兼营畜牧。因自然和战乱等原因,曾经历三次搬迁。
国民は、武を重んじ、産業は、農業と牧畜です。環境変化や戦争が原因で、位置を三回変えました。


建国历史
渠勒国(チラ)の建国の歴史

公元前 60 年(汉神爵二年),西汉王朝在西域建立都护府,渠勒国正式纳入汉朝版图。
紀元前60年(神爵二年) 前漢王朝が、西域都護府を作り、渠勒国は、漢王朝の属国になりました。

公元25 年(建武元年) ,东汉政权建立,匈奴势力控制塔克拉玛南缘,渠勒国被匈奴统治。
紀元25年(建武元年)  後漢政府が成立。匈奴の勢力が、タクラマカン砂漠南縁に及び、渠勒国は、匈奴の統治下に入る。

公元94 年(和帝永元六年) ,东汉统一西域30余国,渠勒国重新归属汉中央政权统治。
紀元94年(和帝永元六年)  後漢が、西域三十数か国を統一し、渠勒国は、再び漢の中央政府の統治下に入りました。

公元132 年后,东汉王朝困羌于乱,无暇西顾。大于阗国(今和田) 日渐强盛,开始侵吞周边小国。
紀元132年以降、後漢王朝は、羌族による争乱で、西域を顧みる余裕がなく、于闐国(ホータン)が、強力になり、周辺の小国を併合しました。

公元180 年左右,渠勒国被于阗国吞并。
紀元180年頃、渠勒国は、于闐国(ホータン)に併合されました。

吞并后管
併合後の管轄

公元221 年(魏黄初二年) ,曹丕派张恭为戊已校尉进驻西域,于阗属戊已校尉管辖。
紀元180年(魏黄初二年)  (曹操の子で二代目の魏王の)曹丕が、張恭を戊己校尉(場所は、高昌 :トルファン)として西域に駐留させた。于闐は、戊己校尉の管轄下となる。

公元640 年(贞观十四年) ,唐王朝设置安西都扩府,于阗归属唐王朝统治。
紀元640年(貞観14年) 唐王朝(侯君集が高昌国を滅ぼして)が、西州都護府を置いた。于闐は、唐王朝の統治下になる。

公元660 年(高宗显庆五年) ,突厥军队击破于阗,于阗被突厥统治。
紀元660年(高宗顕慶:けんけい五年)  突厥軍が于闐を撃破し、于闐は、突厥の統治下になる。

公元671 年(高宗咸亨二年),于阗在唐王朝军队的配合下驱逐西域吐蕃军队,于阗重属唐朝统治。
紀元671年(高宗咸亨:かんこう二年) 于闐と唐王朝の軍隊は、吐蕃軍を西域から駆逐し、于闐は、再び唐王朝の統治になる。

公元1006 年(宋真宗景德三年),喀喇汗王朝大汗玉素甫·卡德尔征服于阗。
紀元1006年(宋真宗景德三年) カラハン朝のユスフ・カデル汗(大汗玉素甫·卡德尔:Yūsuf Qadr Khān)が、于闐を征服する。

于阗军队将领朱克提热西提·努克提热西提在策勒南部山区战死。从此,于阗改尊伊斯兰教。
于闐軍(訳注:仏教徒軍)の二人の将軍の朱克提热西提と努克提热西提は、策勒(新疆ホータン地区チラ県)南部の山中で死亡。その時から、于闐は、イスラム教に改宗した。

公元1134 年,西辽王朝建立后,于阗处于西辽约势力范围以内。
紀元1006年に、西遼王朝(訳注:西遼の耶律大石がカラハン朝を征服)が成立した後、于闐は、西遼の勢力範囲に入る。

公元1218 年,铁木真(成吉思汗)灭西辽占领和田,和田归属蒙左帝统治。
紀元1218年に、テムジン:铁木真(チンギスハン:成吉思汗)が、西遼を駆逐し和田(ホータン:于闐)を占領。和田(ホータン:于闐)は、モンゴル皇帝の統治に入る。
公元1514 年,和田归属叶尔羌汗国统治。
紀元1514年に、和田(ホータン:于闐)は、ヤルカンド汗国(叶尔羌汗国)の統治下になる。


チャガタイ・ハン国の歴史について
13世紀前半 チャガタイ・ハン国成立(チンギスハンの次男チャガタイの国)
14世紀(1340年代)に、チャガタイ・ハン国が東西に分裂。
東チャガタイ・ハン国=モグーリスタン・ハン国(Moghulistan Khanate)成立。
16世紀~17世紀  モグーリスタン・ハン国の君主の子孫の王朝が、ヤルカンド・ハン国(カシュガル・ハン国)  


公元1884 年(光绪十年),清政府设和田直隶州,并在原里雅城设于田县。
策勒是于田县管辖下的一个明(乡) ,策勒明位于克里雅城西230里,辖12个。

1884年(光绪十年)に、清政府は、和田を直隷州にする。策勒は、于田県の策勒明(村)になる。
策勒の位置は、于克里雅城の西230キロ。


渠勒国 – 环境
渠勒国(チラ)の環境

渠勒国 ( 在今策勒县南部山区 ) 是当时西域三十六国之一。
渠勒国(チラ)は、現在の策勒県(チラ)南部の山地にあり、当時の西域三十六か国の一つでした。

渠勒在西域是个较小的国家,为防止外敌入侵,国民崇尚武艺。
渠勒国(チラ)は、西域の小国だったので、外敵の侵入を防ぐために、国民には武術を奨励しました。

公元前27年,渠勒王接受了汉朝的印绶,按照汉制授予官职。
紀元前27年に、渠勒王は、漢の臣下となり、漢の官僚制度を導入。

当时的渠勒古国灌溉便利、水草丰美、生态优越,生产结构以农为主,兼营畜牧。
当時、古代の渠勒国は、灌漑が発達した緑豊かな良い環境で、農業を主として牧畜も行いました。

短短百年间,因战乱和自然等原因,土地大面积沙化,耕地、草场被流沙掩埋,渠勒古国被迫搬迁。
ほんの一世紀で、戦争と自然の要因で、土地が広範囲に砂漠化し、耕地と牧草地は、流砂に埋まりました。古代の渠勒国は、移動を余儀なくされました。

热瓦克是渠勒古国的第二处遗址,位于现在的策勒县城西北部。
ラワク寺院遺跡(熱瓦克寺院遺跡) は、古代の渠勒国(チラ)の第二番目の遺跡で、場所は、現在の策勒県(チラ)の西北部。

ラワク遺跡.jpg

热瓦克佛寺遗址(ラワク寺院遺跡)についてのサイト
http://www.xjht.gov.cn/Article/ShowArticle.aspx?ArticleID=165187

ラワク寺遺跡仏像.jpg

热瓦克佛寺遗址(ラワク寺院遺跡)
佛像-- 1994年出土  影塑菩萨--1994年出土  
(影塑とは、浮彫の事)


热瓦克,维吾尔语即“宫殿”之意,折射其当时的繁华。
ラワク(熱瓦克)とは、ウイグル語で「宮殿」の意味で、当時の繁栄を示しています。

距今约620年以前,一场大风卷着漫漫黄沙一直刮了40多个昼夜,将热瓦克的人畜、草场、农田掩埋。
およそ620年前に、大砂嵐が昼夜40日吹き続けて、熱のために人畜が被害を受け、牧草地や田畑が埋まりました。

策勒古城再次搬迁。现在的策勒县城就是第三次搬迁的位置。
旧策勒(チラ)の街は、再び移動して、現在の策勒の街は。三度目の場所なのです。

据考,当年玄奘所经位于尼壤城之西的媲摩城,有可能就是渠勒国王治所在地。
(大唐西域記で)玄奘が立ち寄った尼壤城(ニヤ)の西の媲摩城(ヘイマ)は、渠勒国(チラ)の王都だった可能性があります。


渠勒国 – 遗址考证
渠勒国(チラ)の遺跡調査

策勒で漢代の都市遺跡.jpg

2012年4月中旬,中国社会科学院考古研究所新疆考古队与新疆策勒县文物保护工作者在塔克拉玛干沙漠腹地进行文物考察时,意外发现一处具有汉式风格的“高等级”古城遗址。
2012年4月中旬に、中国社会科学院考古研究所のチームと新疆策勒県(チラ)文物保全局の職員が、タクラマカン砂漠の辺縁を調査中に、かなりの規模の古代都市遺跡を発見しました。

中国社会科学院考古研究所新疆考古队队长巫新华博士认为,这是在塔克拉玛干沙漠中迄今发现的最为完整的古城遗址,这个古城不排除就是汉代西域三十六国中“渠勒国”的可能。
中国社会科学院考古研究所新疆考古チームの長の巫新华博士は言います。今回、タクラマカン砂漠で、非常に保存状態の良い古代都市遺跡が見つかりましたが、漢代の西域三十六か国の「渠勒国(チラ)」の可能性があります。

考古发现,古城位于新疆和田地区策勒县城北的沙漠深处,大部分已被流沙掩埋。古城大致呈南北向坐落,形制布局为四重城墙结构。古城形制非常完整,而且规格很高,从各种迹象推断,很有可能是较早时期的一个军镇,或者是有一定地位的某个绿洲聚落的首领级人物的居所。
今回見つかった古代都市は、新疆和田地区策勒の街の北の砂漠の中で、大部分が砂に埋もれています。古代都市は、南北向きに造られ、四重の城壁に囲まれています。古代都市の設計は非常に整っていて、ハイレベルです。いろいろな要素から判断して、ここが、かなり大昔の防衛拠点、または、地方の高い身分の首領が住んでいたオアシス都市だと思われます。

塔克拉玛干沙漠深处发现“高等级”汉式风格古城遗址
タクラマカン砂漠で漢時代の古代都市遺跡を発見
http://tech.ifeng.com/discovery/detail_2012_04/25/14142496_0.shtml

http://news.xinhuanet.com/tech/2012-04/24/c_123030076.htm


posted by ウクライナ人妻の夫 at 15:35| Comment(0) | ウイグルの古代人 | 更新情報をチェックする
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