2016年02月28日

タリム盆地の古代都市国家群 その2

Ancient city states of the tarim basin

2100年前のタリム盆地(新疆)にあった都市国家群の経済についての検討

4. 経済 Economy

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ニコラ・ジ・コスモ
Nicola Di Cosmo

4. 経済 Economy  p398 - p400

これらの国々には、様々な経済基盤がありました。牧畜、農耕、商業、手工業、冶金、さらに、盗みや強盗もです。現在のチェルチェン地方:Cherchenにあった都市の且末:Qiemoが、経済的境界でした。その西には、農耕に適した土地が広がり、記録によると、中国で知られていた全ての作物が栽培されていました。そこの土地、植生、家畜、武器の製造は、大方、漢と同様でした。
   且末:Qiemoの東の国々は、そんなに恵まれていませんでした。楼蘭(Kroraina, Loulan, Shanshan)の経済基盤は農業でしたが、住民を養うには不十分でした。土地が砂地で、塩を含んだ土壌で、農耕には適さなかったので、食糧を周辺国家から輸入していました。そのため同時に牧畜も生業にしていました。そして、農耕文化と牧畜文化の混合が見られました。もっとも、楼蘭の住民の生活様式は、西の諸都市の定住生活よりも、周辺の遊牧民に似ていました。このような経済と生活様式の混合と通商ルートにおける戦略的位置が、楼蘭の住民を、遊牧民と定住者の間の媒介者にしたのでしょう。羌:Qiangが、楼蘭から穀物を輸入したがっている記録が残っています。これは、楼蘭自身が穀物を輸入していた事と矛盾します。羌:Qiangが楼蘭から輸入した穀物は、もしかしたら且末:Qiemo産かもしれません。もしそうなら、これは、タリム盆地の各地を結ぶ経済構造の一例と言えます。各地の農産物が、楼蘭を仲介として、遊牧民に供給されていたのです。それから、記録によると、姑師:Gushi(車師:Cheshi)と楼蘭は、西域諸国への玄関口に位置していました。それらの西域諸国は、中国の使節団を襲ったり強盗したりして、たびたび妨害しました。
旅行者にとって危険な地域があった事は、劫:Jieという国があった事からも、うかがえます。(訳注:中国語で「劫」は、強奪する、略奪する、かすめ取る)その地域では、強盗が、職業の一つだったのです。別の見方をすれば、このような乱暴な襲撃で、西域諸都市が、自らの経済主導権を、中国商人から守ろうとしたのでしょう。楼蘭は、このように、商業的戦略的に重要地点でした。それゆえ、自然環境に恵まれない乾燥地帯にもかかわらず、楼蘭は、中国の西域征伐の歴史で、軍事作戦上、あるいは、政治的な重要拠点になったのです。
  文書記録は、冶金工業の発達した地域について述べています。コルラの南にあったと思われる国、墨山:Moshan(黒い山の意味)の住民5000人は、鉄鉱山の近くの丘に住み、農作物は、焉耆:Yanqiと危須:Weixuから輸入していました。これは、鉱山業と冶金業で生計を立てていた集団の一例でしょう。冶金が主要産業だったと思われるもう一つの国は、現在の阿克蘇:Aksu 近くにあった姑墨:Gumoです。銅、鉄、石黄(訳注:ヒ素の硫化鉱物:orpiment)が産出したのです。同地方に残るヌラサイ銅鉱山遺跡(Nulasai Copper Mine, 奴拉赛铜矿遗址)は、主に遊牧が主体のこの地域に、かつて高度に発達した冶金業があった証拠です。姑墨:Gumoの産業については、冶金業以外に文書記録は触れていません。ただ、政府の官職名についての記録と、24,500人の人口に対して兵力が4500人と、人口に対する兵力比が小さいことから、遊牧民集団ではなかったようです。推測ですが、姑墨:Gumoの住民は、ほぼ定住者で、冶金業と商業が主要産業だったのかもしれません。もっとも、彼らの軍隊には騎兵がいましたが。
  国の産業が、農業主体なのか牧畜主体なのかは、区別できない場合がよくあります。特に、小国の場合です。そのような小国の例ですが、尉頭:Weitouなどは、300戸しかなくて、住民は、農耕も牧畜も両方していました。この国の住民は、衣装が遊牧民風だったので、一部が定住を始めた遊牧民だったのかもしれません。遊牧民と定住者は、全く別物で、はっきりと区別できるというのは迷信です。定住する牧畜民がいた可能性があるため、各地の社会の産業については、考古学的発掘による証拠から明らかにするしかありません。
  他の資源として、ヒスイ(訳注:nephrite jade、ネフライト、軟玉)の採掘を重要産業とする都市もありました。それは、于闐:Yutian(Khotan)と西夜:Xiyeです。前述の焉耆:Yanqiのように、漁労を重要な産業としていた国もありました。特殊な牧畜を行っていた国もありました。特筆すべき例として、烏秅:Wuchaがあります。 烏秅は、小歩馬を産し、ロバはいるが牛はいないとあります。(訳注:漢書原文「烏秅....出小歩馬有驢無牛」)
  タリム盆地で貨幣が使われるようになったのは、中国の植民地になってからです。それまでは、貨幣は、中央アジア西部の方では使用されましたが、中央アジア東部では、黄金や絹が通貨の代わりでした。しかし、大部分の取引は、物々交換だったと思われます。中国の政治家の桑弘羊(訳注:前漢の武帝の財政家:そう こうよう)は、西域に移住させる兵士や罪人の食料は、漢の貨幣よりも現地では価値が高い金や絹で支払うように勧めました。この発言は、とても重要な意味を持っています。それが、古代の新疆で中国の絹がなぜ大量に流通していたかの理由だからです。西域で絹が貨幣の代わりになるほど重用されたため、地中海地域との長距離貿易で運ばれるよりも多くの絹が西域で消費されました。
  それから、牧畜国と農業国の間での通商がありました。「牧畜国が耕地を欲しがっている。」との記録がありますが、私は、異なる産業を持つ国々の間での物々交換の取引の記録だと考えます。牧畜国が農業国から、取引で穀物を得ていたのでしょう。穀物を得るために軍事力を使用した記録はありません。遊牧民が、ある国を攻撃して、その弱い国に農産物を貢がせる事はありましたが、他国を襲って略奪していた記録は、少なくとも、中国の史書にはありません。


posted by ウクライナ人妻の夫 at 12:02| Comment(0) | アーリア人の先祖 | 更新情報をチェックする
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