2016年02月25日

タリム盆地の古代都市国家群 その1

Ancient city states of the tarim basin

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紀元前一世紀頃のタリム盆地(新疆)にあった都市国家群の社会・人口・兵力に関する前漢の張騫の記録。「漢書」についての検討。

目次
1.文書の情報:Textual Sources
2.人口:Population
3.政治形態:Political Structure

タリム盆地地図2.gif

ニコラ・ジ・コスモ
Nicola Di Cosmo

1.文書の情報:Textual Sources  p396 – p397

textual sources2.gif

  中央アジアの古代社会(中国の史書の「西域」)は、張騫の遠征で明らかになりました。漢の武帝(紀元前140~紀元前87)が、匈奴に対抗する同盟国を得るために派遣した西域調査隊です。張騫は、長年を中央アジアで過ごしました。旅をしたり、匈奴の捕虜になったりしました。本国に帰還した張騫は、自己の見聞に基づいた報告をし、その内容は、中央アジアの情報として史記や漢集に記されました。
  張騫の得た情報は、彼の調査目標が色濃く表れていますが、現在でも、タリム盆地の古代社会についての理解の基盤となっています。張騫は、53ヵ国について記述しました。その中の6か国は、中央アジアに位置し、この論文では検討しませんが、残りの47ヵ国は、タリム盆地とその周辺、すなわち、パミール、天山山脈、イリ地区、現在の新疆東部にありました。これらの国々では、農業と牧畜が行われ、その内の24ヵ国、または、26ヵ国の首都は、城壁都市でした。城壁都市は、一ヵ国に一つ以上はなかったようです。多くの場合、都市の名前と国名は同じでした。しかし、例外もあり、龟兹 : Qiuziの首都は、Yanであり、車師 : Jushiの首都は、Jiaoheであり(車師=現在の吐魯番:Turfan)、焉耆 : Yanqiの首都は、Yuanchuでした(焉耆は、現在の哈喇沙爾:Karashar)。首都名が、記述的な場合もありました。姑墨 : Gumoの首都は、南の都市を意味するnanであり、于闐 : Yutian(またはKhotan)の首都は、西の砦を表すxichengでした。このような都市名が国名と異なるケースは、国名が民族的意味合いを持つと思われます。遊牧民の烏孫:Wusunの首府が、赤谷:Chiguだったのは、このケースに当てはまるでしょう。
  これらの国々についての記述内容は、一定しています。記述は、国名から始まり、首都名、主要官職名、戸数、人口、兵力についてです。その国の隣国名から、国の位置が分かります。重要な国については、経済や政治的立場の記述もあります。これらの国家のいくつかは、所在地が分かりました。位置が推定できるが、はっきりした証拠はまだない国も少しあります。しかし、大部分の国の位置については、意見の食い違いがあり論争中です。したがって、張騫が記述した国々の位置については、はっきりした結論が出ていません。


2.人口:Population  p397

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  国の大きさは、様々でした。烏貪訾離 : Wutanziliは、おそらく、マナス:Manassとエビ湖:Ebi Norの間にあったと考えられますが、戸数は41で、人口231人、兵力57人でした。これは極端に小さな国の例で、社会的、経済的に発達はしていなかったはずです。これ以外にも、100戸以下の小国として、單桓:Tanhuan、劫:Jie、狐胡:Guhuがありました。しかし、大部分の国々は、数百戸から数千戸ありました。いちばん人口が多かった国は、現在のKarashar付近の焉耆:Yanqiで、首都は、Yuanchuでした。4000戸で人口が32,100人あり、兵力6000人でした。この国の北にいた遊牧民の烏孫:Wusunとの関係は、記録に残る官職名から判断して、険悪だったようです。現在のカシュガル地区:Kashgarには、タリム盆地西端に大オアシスの一つがあり、国名は、疏勒:Shuleでした。この国も人口が多く、1510戸で、人口18,647人、兵力2000人でした。
  総人口と兵力の比をざっと見ても、牧畜部族の方が、農耕部族よりも、武力が大きかった事が分かります。休循:Xiuxunは、遊牧民の烏孫と似た風習だったと言われ、民族はサカ:塞:Sakaでしたが、人口1030人で兵力が480人でした。同様に、サカ族の都市国家である捐毒:Juanduも人口1100人、兵力が500人で、似た比率でした。この両方の数字は、あり得ないほど大きいので、子供も含めて全ての男を兵力として数えたのか、女性の一部も兵力として数えたのか、それとも、一定の階級の人々、つまり、奴隷などは、人口としては数えなかったが兵力としては数えたなどの可能性が考えられます。これは推測に過ぎませんし、上記の数字も、にわかには信じがたいですが、とにかく、当時の中国が、遊牧民の人口に対する兵力が大きいと考えていた事は分かります。別の牧畜民の羌:Qiangは、もっと現実的な比率で、人口1750人に対して兵力が500人です。これは、成人男性の数に近いと思われます。
  農業国では、人口に対する兵力の比率は、劇的に異なります。
莎車:Suoju/Shache(ヤルカンド県:Yarkand)では、人口16,373人に対して兵力3049人で、疏勒:Shule(カシュガル地区:Kashgar)は、人口18,647人に対して兵力2000人でした。さらに、于闐:Yutian(ホータン:Khotan)では、人口19,300人に対して兵力2400人でした。農業が盛んだった楼蘭:Loulanは、大きな強国でしたが、人口14,100人に対して兵力2912人で、ここでも人口に対する兵力は五分の一です。もっと兵力の比率の低い国々もあり、それは以下です。且末:Qiemo、小宛:Xiaoyuan、 精絕:Jingjue、 戎盧:Ronglu、 扜彌:Wumi、渠勒:Quluo/Qule。記録に残る数字の信頼性には問題がありますが、二種類の社会の違いが、はっきりと見て取れます。月氏:Yuezhiのように、部分的に定住を始めた遊牧民では、兵力と人口の比が一対四です。

3.政治形態:Political Structure p397 - p398

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文字記録に残る国々のおよそ半数のみが、都市国家と見做すことができます。首都、または、王府が、城壁都市(大きな砦)だったからです。数ヵ国については、この様な砦があったかどうかが不明です。それから、遊牧民であるか定住であるかに関わらず、首府が谷にあると記述されている場合、それが都市とは言えない集落だった可能性があります。本研究では、範囲を広げて、城壁都市を持たなかった国の人口、経済、軍事についても比較分析しましょう。
  王の下の政府は、しばしば、左右に分かれていました。民政も軍事司令官もです。(訳注:左右将、左右騎君など)最高級官職は、二つに分かれていない場合もあります。最も良く見られる最高官職は、輔国候(Fu guo)で、国を補佐すると言う意味で、首相や総理大臣に当たります。他に、遊牧民に悩まされている事を表す官職名があります。例えば、撃胡君(ji hu:遊牧民を撃つの意味)です。尉犁:Weili 、危須:Weixu、焉耆:Yanqi などには、この様な官職名があります。
  亀茲:Qiuzi(現在のクチャ県付近)の記述的な官職名は、特に興味深いです。これは、タリム盆地最大のオアシス国家だったと考えられます。6970戸、人口81,317人、兵力21,076人でした。大きな政府を持ち、王の下に、最高司令官(大都尉丞)、国の補佐官(輔国侯)、国の平和を維持官(安国侯)、遊牧民を撃つ官(撃胡侯)、遊牧民制圧官(卻胡都尉)、車師を撃つ官(撃車師都尉)、左右の将軍(左右将)、左右の司令官(左右都尉)、左右の騎兵隊長(左右騎君)、左右の援護隊長(左右力輔君)、東西南北の千人隊長(東西南北部千長)が各二人ずつ、遊牧民制圧隊長(卻胡君)が三人、通訳長(譯長)が四人です。したがって、 亀茲:Qiuziの政治軍事組織は、王以下三十人となります。例外もありますが、農業国家には、遊牧国家よりも、大きくてしっかりした政府がありました。トルファン:吐鲁番 :Turfan地区にあった小国の狐胡:Guhu/Huhuの場合、人口はたったの264人で、兵力45人でしたが、国の補佐官(輔国侯:fu guo)と左右の司令官(左右都尉)がいました。
  反対に、遊牧国家では、人口がとても多い場合でも、政治組織は簡素でした。この地方で最大の遊牧民族の一つの烏孫:Wusunは、人口630,000人で、兵力188,800人でした。ここでも、兵力は人口の三分の一弱で、高い比率でした。ところが、政府は、 亀茲:Qiuziよりもずっと小さくて、宰相、大禄:talu、左右大将が2人、侯:yabghuが3人、都尉(大将付きの司令官)が各1人、大監(監査長官)が2人、大吏(長官)が1人、舍中大吏が2人、騎君(騎兵隊長)が1人の計15人でした。この大きさの政府は、農業国でいえば、人口3万人程度の国に相当します。たとえば、焉耆:Yanqiです。もっと小さな遊牧国家では、官職がほとんどありませんでした。西夜:Xiye、蒲犁:Puli、依耐:Yinai、無雷:Wuleiの四つの牧畜国では、官職は、「候」が一人だけで、蒲犁:Puliには、「都尉」が一人いました。官職についての記述がどこでもあるのに、ここにないと言うことは、「国」として記述されてはいても、小さな牧畜国家には、政府組織の階級がはっきりしないか、存在しなかったのでしょう。
  中央アジア東部の国家間の関係で、都市を持たない国々よりも、都市を持つ国々の方が強大でしたが、都市を持つ国々が、都市を持たない国々を支配していた訳ではありません。とても小さな都市国家もあり、單桓:Danhuanなどは、人口194人でした。都市国家が、都市を持たない国を征服して大きくなったと言う記述はありません。城壁都市を持つ国が、人口が多い傾向はあります。もちろん、遊牧民は、人口にかかわらず都市を持ちませんでした。


posted by ウクライナ人妻の夫 at 16:24| Comment(0) | アーリア人の先祖 | 更新情報をチェックする
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