2016年02月28日

タリム盆地の古代都市国家群 その3

Ancient city states of the tarim basin

5.軍事関係 Military Matters

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ニコラ・ジ・コスモ
Nicola Di Cosmo

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5.軍事関係   p400 - p401

張騫は、軍事に関する情報を主に収集したので、彼の残した記録に軍事情報が多く記されているのは当然です。二種類の情報が記されています。その二つとは、軍事的資源と軍事行動です。軍事的資源からは、各国の相対的な強さが分かります。軍事行動の記録からは、国々がなぜ軍事力を使うことになったかの理由が分かります。
  すでに紹介したように、漢書には、各国の軍事力が記されています。さらに、遊牧国家の方が、定住国家よりも重武装だった事が分かりました。これは、生活様式の違いの問題ではなく、遊牧民が馬を所有し、また、金属の入手ルートも持っていたからです。その事が、はっきりと記録に残っているのは、新彊:Xinjiang東端部から甘粛省:Gansuと青海省:Qinghaiに住んでいた遊牧民の羌族:Qiangです。彼らは鉄の鉱山を知っていて、鉄の武器を製造していました。弓、槍、ナイフ、剣、甲冑などです。武器を製造していた定住民もいました。たとえば、龜茲:Qiuziや楼蘭:Loulanです。
  すでに述べたように、定住国家の政府の官職名から、遊牧民と定住国との間の緊張関係が見て取れます。定住国は、砦で防戦しました。車師:Jushi(姑師:Gushi)の王についての記録に「北の石の砦にいる。まだ持ちこたえている。」とあります。これは、車師が、漢軍の攻撃を受けた時の記録です。定住国家のいくつかは、歩兵の他に騎兵も持っていました。 たとえば、拘彌:Jumi (扜彌:Yumi)には、騎兵隊長の官職名の「騎君」が見られます。逆に、遊牧民も砦を構えていました。なので、遊牧民と定住者の戦闘方法に大きな違いがあったとは思えません。ただ、遊牧民は、軍事的資源を所有していて、兵士と馬の数が多く、また、優れた武器を持っていました。
  なぜ遊牧民と農民が、敵対していたのでしょうか。遊牧民が、自分たちに欠けている産物を得るために、農業国家を襲ったのだろうと、一般に考えられています。遊牧民の需要についての文書記録ですが、いくつかの牧畜国家で、農作物の自給が不十分なために、食糧を他国に頼ったとあります。農業資源をめぐる競合が、国家間紛争の原因だった可能性が十分あります。しかし、文書記録には、遊牧民が農業国を襲った例はなく、むしろ、遊牧国家が農業国を征服して搾取した例があります。遊牧国家が非常に強力であれば、都市国家を属国にして産物を上納させる事ができました。このようにして、遊牧民は、領土外に展開する軍隊への安定した食料供給を得ていました。そのような強大な軍事力がない遊牧民は、農業国と物々交換をしました。
  強大な遊牧民が、オアシス諸国家を従属させていた例として、車師:Jushi(姑師:Gushi)地方を巡る匈奴:Xiongnuと漢:Hanの紛争があります。車師:Jushi(姑師:Gushi)地方は、その地を手に入れた者が、自分の軍隊への十分な食料補給が可能になる戦略的位置でした。この地を巡る紛争は、長い間続きました。漢も匈奴も、自国民をこの地に入植させて耕作をしました。入植者を守る大部隊(十分な兵力とは限りませんが)も一緒に駐留しました。遊牧民の土地に隣接する肥沃な車師:Jushi(姑師:Gushi)の土地は、遊牧民にとっては、穀物やその他の貢ぎ物が得られる絶好の場所だったのです。ほかの諸都市国家も、遊牧民に貢納しました。国家間に、このような軍事経済関係が出来上がったのです。遊牧民にとっても、勢力を広げるためには、軍事政治的に定住者の国を従属させる必要がありました。中国人が、この地に来て、匈奴の軍事政治的影響力を取り除くために最初に行ったのは、匈奴に従属している諸都市国家を解放するための戦争です。この地方の当時の紛争の多くは、超大国であった匈奴と中国による、農業資源を巡る戦いです。双方が、農業資源を、敵に渡さず自己の軍隊を養うために利用しようとしました。ハミ地区(訳注:Hami、哈密、新疆の東端)は、特に遊牧民の侵略にさらされる土地で、中国が植民地駐留軍を引き上げた時に、すぐに攻撃を受けました。遊牧民は、定住者を襲撃するだけではなく、定住国家に侵入して耕地を取り上げたようです。後漢(紀元23年~紀元220年)の衰退後、この地方では、大国が小国を征服するようになり、一つの都市国家よりも大きな規模の国々が生まれました。莎车 Suoju(ヤルカンドYarkand、莎車Shache)、 鄯善Shanshan(クロライナKroraina、楼蘭Loulan)、于闐 Yutian(ホータンKhotan)、車師Jushi(姑師:Gushi、トルファンTurfan)は、地方の雄として一時的に勢力を伸ばした国々です。しかし、後には、オアシス諸都市が再び独立して影響力を失いました。


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タリム盆地の古代都市国家群 その2

Ancient city states of the tarim basin

2100年前のタリム盆地(新疆)にあった都市国家群の経済についての検討

4. 経済 Economy

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ニコラ・ジ・コスモ
Nicola Di Cosmo

4. 経済 Economy  p398 - p400

これらの国々には、様々な経済基盤がありました。牧畜、農耕、商業、手工業、冶金、さらに、盗みや強盗もです。現在のチェルチェン地方:Cherchenにあった都市の且末:Qiemoが、経済的境界でした。その西には、農耕に適した土地が広がり、記録によると、中国で知られていた全ての作物が栽培されていました。そこの土地、植生、家畜、武器の製造は、大方、漢と同様でした。
   且末:Qiemoの東の国々は、そんなに恵まれていませんでした。楼蘭(Kroraina, Loulan, Shanshan)の経済基盤は農業でしたが、住民を養うには不十分でした。土地が砂地で、塩を含んだ土壌で、農耕には適さなかったので、食糧を周辺国家から輸入していました。そのため同時に牧畜も生業にしていました。そして、農耕文化と牧畜文化の混合が見られました。もっとも、楼蘭の住民の生活様式は、西の諸都市の定住生活よりも、周辺の遊牧民に似ていました。このような経済と生活様式の混合と通商ルートにおける戦略的位置が、楼蘭の住民を、遊牧民と定住者の間の媒介者にしたのでしょう。羌:Qiangが、楼蘭から穀物を輸入したがっている記録が残っています。これは、楼蘭自身が穀物を輸入していた事と矛盾します。羌:Qiangが楼蘭から輸入した穀物は、もしかしたら且末:Qiemo産かもしれません。もしそうなら、これは、タリム盆地の各地を結ぶ経済構造の一例と言えます。各地の農産物が、楼蘭を仲介として、遊牧民に供給されていたのです。それから、記録によると、姑師:Gushi(車師:Cheshi)と楼蘭は、西域諸国への玄関口に位置していました。それらの西域諸国は、中国の使節団を襲ったり強盗したりして、たびたび妨害しました。
旅行者にとって危険な地域があった事は、劫:Jieという国があった事からも、うかがえます。(訳注:中国語で「劫」は、強奪する、略奪する、かすめ取る)その地域では、強盗が、職業の一つだったのです。別の見方をすれば、このような乱暴な襲撃で、西域諸都市が、自らの経済主導権を、中国商人から守ろうとしたのでしょう。楼蘭は、このように、商業的戦略的に重要地点でした。それゆえ、自然環境に恵まれない乾燥地帯にもかかわらず、楼蘭は、中国の西域征伐の歴史で、軍事作戦上、あるいは、政治的な重要拠点になったのです。
  文書記録は、冶金工業の発達した地域について述べています。コルラの南にあったと思われる国、墨山:Moshan(黒い山の意味)の住民5000人は、鉄鉱山の近くの丘に住み、農作物は、焉耆:Yanqiと危須:Weixuから輸入していました。これは、鉱山業と冶金業で生計を立てていた集団の一例でしょう。冶金が主要産業だったと思われるもう一つの国は、現在の阿克蘇:Aksu 近くにあった姑墨:Gumoです。銅、鉄、石黄(訳注:ヒ素の硫化鉱物:orpiment)が産出したのです。同地方に残るヌラサイ銅鉱山遺跡(Nulasai Copper Mine, 奴拉赛铜矿遗址)は、主に遊牧が主体のこの地域に、かつて高度に発達した冶金業があった証拠です。姑墨:Gumoの産業については、冶金業以外に文書記録は触れていません。ただ、政府の官職名についての記録と、24,500人の人口に対して兵力が4500人と、人口に対する兵力比が小さいことから、遊牧民集団ではなかったようです。推測ですが、姑墨:Gumoの住民は、ほぼ定住者で、冶金業と商業が主要産業だったのかもしれません。もっとも、彼らの軍隊には騎兵がいましたが。
  国の産業が、農業主体なのか牧畜主体なのかは、区別できない場合がよくあります。特に、小国の場合です。そのような小国の例ですが、尉頭:Weitouなどは、300戸しかなくて、住民は、農耕も牧畜も両方していました。この国の住民は、衣装が遊牧民風だったので、一部が定住を始めた遊牧民だったのかもしれません。遊牧民と定住者は、全く別物で、はっきりと区別できるというのは迷信です。定住する牧畜民がいた可能性があるため、各地の社会の産業については、考古学的発掘による証拠から明らかにするしかありません。
  他の資源として、ヒスイ(訳注:nephrite jade、ネフライト、軟玉)の採掘を重要産業とする都市もありました。それは、于闐:Yutian(Khotan)と西夜:Xiyeです。前述の焉耆:Yanqiのように、漁労を重要な産業としていた国もありました。特殊な牧畜を行っていた国もありました。特筆すべき例として、烏秅:Wuchaがあります。 烏秅は、小歩馬を産し、ロバはいるが牛はいないとあります。(訳注:漢書原文「烏秅....出小歩馬有驢無牛」)
  タリム盆地で貨幣が使われるようになったのは、中国の植民地になってからです。それまでは、貨幣は、中央アジア西部の方では使用されましたが、中央アジア東部では、黄金や絹が通貨の代わりでした。しかし、大部分の取引は、物々交換だったと思われます。中国の政治家の桑弘羊(訳注:前漢の武帝の財政家:そう こうよう)は、西域に移住させる兵士や罪人の食料は、漢の貨幣よりも現地では価値が高い金や絹で支払うように勧めました。この発言は、とても重要な意味を持っています。それが、古代の新疆で中国の絹がなぜ大量に流通していたかの理由だからです。西域で絹が貨幣の代わりになるほど重用されたため、地中海地域との長距離貿易で運ばれるよりも多くの絹が西域で消費されました。
  それから、牧畜国と農業国の間での通商がありました。「牧畜国が耕地を欲しがっている。」との記録がありますが、私は、異なる産業を持つ国々の間での物々交換の取引の記録だと考えます。牧畜国が農業国から、取引で穀物を得ていたのでしょう。穀物を得るために軍事力を使用した記録はありません。遊牧民が、ある国を攻撃して、その弱い国に農産物を貢がせる事はありましたが、他国を襲って略奪していた記録は、少なくとも、中国の史書にはありません。
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2016年02月25日

タリム盆地の古代都市国家群 その1

Ancient city states of the tarim basin

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紀元前一世紀頃のタリム盆地(新疆)にあった都市国家群の社会・人口・兵力に関する前漢の張騫の記録。「漢書」についての検討。

目次
1.文書の情報:Textual Sources
2.人口:Population
3.政治形態:Political Structure

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ニコラ・ジ・コスモ
Nicola Di Cosmo

1.文書の情報:Textual Sources  p396 – p397

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  中央アジアの古代社会(中国の史書の「西域」)は、張騫の遠征で明らかになりました。漢の武帝(紀元前140~紀元前87)が、匈奴に対抗する同盟国を得るために派遣した西域調査隊です。張騫は、長年を中央アジアで過ごしました。旅をしたり、匈奴の捕虜になったりしました。本国に帰還した張騫は、自己の見聞に基づいた報告をし、その内容は、中央アジアの情報として史記や漢集に記されました。
  張騫の得た情報は、彼の調査目標が色濃く表れていますが、現在でも、タリム盆地の古代社会についての理解の基盤となっています。張騫は、53ヵ国について記述しました。その中の6か国は、中央アジアに位置し、この論文では検討しませんが、残りの47ヵ国は、タリム盆地とその周辺、すなわち、パミール、天山山脈、イリ地区、現在の新疆東部にありました。これらの国々では、農業と牧畜が行われ、その内の24ヵ国、または、26ヵ国の首都は、城壁都市でした。城壁都市は、一ヵ国に一つ以上はなかったようです。多くの場合、都市の名前と国名は同じでした。しかし、例外もあり、龟兹 : Qiuziの首都は、Yanであり、車師 : Jushiの首都は、Jiaoheであり(車師=現在の吐魯番:Turfan)、焉耆 : Yanqiの首都は、Yuanchuでした(焉耆は、現在の哈喇沙爾:Karashar)。首都名が、記述的な場合もありました。姑墨 : Gumoの首都は、南の都市を意味するnanであり、于闐 : Yutian(またはKhotan)の首都は、西の砦を表すxichengでした。このような都市名が国名と異なるケースは、国名が民族的意味合いを持つと思われます。遊牧民の烏孫:Wusunの首府が、赤谷:Chiguだったのは、このケースに当てはまるでしょう。
  これらの国々についての記述内容は、一定しています。記述は、国名から始まり、首都名、主要官職名、戸数、人口、兵力についてです。その国の隣国名から、国の位置が分かります。重要な国については、経済や政治的立場の記述もあります。これらの国家のいくつかは、所在地が分かりました。位置が推定できるが、はっきりした証拠はまだない国も少しあります。しかし、大部分の国の位置については、意見の食い違いがあり論争中です。したがって、張騫が記述した国々の位置については、はっきりした結論が出ていません。


2.人口:Population  p397

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  国の大きさは、様々でした。烏貪訾離 : Wutanziliは、おそらく、マナス:Manassとエビ湖:Ebi Norの間にあったと考えられますが、戸数は41で、人口231人、兵力57人でした。これは極端に小さな国の例で、社会的、経済的に発達はしていなかったはずです。これ以外にも、100戸以下の小国として、單桓:Tanhuan、劫:Jie、狐胡:Guhuがありました。しかし、大部分の国々は、数百戸から数千戸ありました。いちばん人口が多かった国は、現在のKarashar付近の焉耆:Yanqiで、首都は、Yuanchuでした。4000戸で人口が32,100人あり、兵力6000人でした。この国の北にいた遊牧民の烏孫:Wusunとの関係は、記録に残る官職名から判断して、険悪だったようです。現在のカシュガル地区:Kashgarには、タリム盆地西端に大オアシスの一つがあり、国名は、疏勒:Shuleでした。この国も人口が多く、1510戸で、人口18,647人、兵力2000人でした。
  総人口と兵力の比をざっと見ても、牧畜部族の方が、農耕部族よりも、武力が大きかった事が分かります。休循:Xiuxunは、遊牧民の烏孫と似た風習だったと言われ、民族はサカ:塞:Sakaでしたが、人口1030人で兵力が480人でした。同様に、サカ族の都市国家である捐毒:Juanduも人口1100人、兵力が500人で、似た比率でした。この両方の数字は、あり得ないほど大きいので、子供も含めて全ての男を兵力として数えたのか、女性の一部も兵力として数えたのか、それとも、一定の階級の人々、つまり、奴隷などは、人口としては数えなかったが兵力としては数えたなどの可能性が考えられます。これは推測に過ぎませんし、上記の数字も、にわかには信じがたいですが、とにかく、当時の中国が、遊牧民の人口に対する兵力が大きいと考えていた事は分かります。別の牧畜民の羌:Qiangは、もっと現実的な比率で、人口1750人に対して兵力が500人です。これは、成人男性の数に近いと思われます。
  農業国では、人口に対する兵力の比率は、劇的に異なります。
莎車:Suoju/Shache(ヤルカンド県:Yarkand)では、人口16,373人に対して兵力3049人で、疏勒:Shule(カシュガル地区:Kashgar)は、人口18,647人に対して兵力2000人でした。さらに、于闐:Yutian(ホータン:Khotan)では、人口19,300人に対して兵力2400人でした。農業が盛んだった楼蘭:Loulanは、大きな強国でしたが、人口14,100人に対して兵力2912人で、ここでも人口に対する兵力は五分の一です。もっと兵力の比率の低い国々もあり、それは以下です。且末:Qiemo、小宛:Xiaoyuan、 精絕:Jingjue、 戎盧:Ronglu、 扜彌:Wumi、渠勒:Quluo/Qule。記録に残る数字の信頼性には問題がありますが、二種類の社会の違いが、はっきりと見て取れます。月氏:Yuezhiのように、部分的に定住を始めた遊牧民では、兵力と人口の比が一対四です。

3.政治形態:Political Structure p397 - p398

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文字記録に残る国々のおよそ半数のみが、都市国家と見做すことができます。首都、または、王府が、城壁都市(大きな砦)だったからです。数ヵ国については、この様な砦があったかどうかが不明です。それから、遊牧民であるか定住であるかに関わらず、首府が谷にあると記述されている場合、それが都市とは言えない集落だった可能性があります。本研究では、範囲を広げて、城壁都市を持たなかった国の人口、経済、軍事についても比較分析しましょう。
  王の下の政府は、しばしば、左右に分かれていました。民政も軍事司令官もです。(訳注:左右将、左右騎君など)最高級官職は、二つに分かれていない場合もあります。最も良く見られる最高官職は、輔国候(Fu guo)で、国を補佐すると言う意味で、首相や総理大臣に当たります。他に、遊牧民に悩まされている事を表す官職名があります。例えば、撃胡君(ji hu:遊牧民を撃つの意味)です。尉犁:Weili 、危須:Weixu、焉耆:Yanqi などには、この様な官職名があります。
  亀茲:Qiuzi(現在のクチャ県付近)の記述的な官職名は、特に興味深いです。これは、タリム盆地最大のオアシス国家だったと考えられます。6970戸、人口81,317人、兵力21,076人でした。大きな政府を持ち、王の下に、最高司令官(大都尉丞)、国の補佐官(輔国侯)、国の平和を維持官(安国侯)、遊牧民を撃つ官(撃胡侯)、遊牧民制圧官(卻胡都尉)、車師を撃つ官(撃車師都尉)、左右の将軍(左右将)、左右の司令官(左右都尉)、左右の騎兵隊長(左右騎君)、左右の援護隊長(左右力輔君)、東西南北の千人隊長(東西南北部千長)が各二人ずつ、遊牧民制圧隊長(卻胡君)が三人、通訳長(譯長)が四人です。したがって、 亀茲:Qiuziの政治軍事組織は、王以下三十人となります。例外もありますが、農業国家には、遊牧国家よりも、大きくてしっかりした政府がありました。トルファン:吐鲁番 :Turfan地区にあった小国の狐胡:Guhu/Huhuの場合、人口はたったの264人で、兵力45人でしたが、国の補佐官(輔国侯:fu guo)と左右の司令官(左右都尉)がいました。
  反対に、遊牧国家では、人口がとても多い場合でも、政治組織は簡素でした。この地方で最大の遊牧民族の一つの烏孫:Wusunは、人口630,000人で、兵力188,800人でした。ここでも、兵力は人口の三分の一弱で、高い比率でした。ところが、政府は、 亀茲:Qiuziよりもずっと小さくて、宰相、大禄:talu、左右大将が2人、侯:yabghuが3人、都尉(大将付きの司令官)が各1人、大監(監査長官)が2人、大吏(長官)が1人、舍中大吏が2人、騎君(騎兵隊長)が1人の計15人でした。この大きさの政府は、農業国でいえば、人口3万人程度の国に相当します。たとえば、焉耆:Yanqiです。もっと小さな遊牧国家では、官職がほとんどありませんでした。西夜:Xiye、蒲犁:Puli、依耐:Yinai、無雷:Wuleiの四つの牧畜国では、官職は、「候」が一人だけで、蒲犁:Puliには、「都尉」が一人いました。官職についての記述がどこでもあるのに、ここにないと言うことは、「国」として記述されてはいても、小さな牧畜国家には、政府組織の階級がはっきりしないか、存在しなかったのでしょう。
  中央アジア東部の国家間の関係で、都市を持たない国々よりも、都市を持つ国々の方が強大でしたが、都市を持つ国々が、都市を持たない国々を支配していた訳ではありません。とても小さな都市国家もあり、單桓:Danhuanなどは、人口194人でした。都市国家が、都市を持たない国を征服して大きくなったと言う記述はありません。城壁都市を持つ国が、人口が多い傾向はあります。もちろん、遊牧民は、人口にかかわらず都市を持ちませんでした。
posted by ウクライナ人妻の夫 at 16:24| Comment(0) | アーリア人の先祖 | 更新情報をチェックする
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